YEC TOURING REPORT
日時 : 2011.05.03~04
目的地 : 信州地獄谷温泉(後楽館)
宿泊費 : ¥11,500-(部屋:山側 1泊2食付/1人)
入湯税 :\150-/1人
清酒(2合)\1000-/本×2本
参加者 : 齋藤、春日、杉本
集合場所 : ショップ前 7:30
全走行距離:530km
1日目
5月3日(曇り)
関東地方は午後から降雨の予報であったが、幸い本日の目的地である信越方面は前線には影響されないようなので幸先のよいスタートである。陽射しがないので少々肌寒く、この時期はジャケットに迷うところだが、先月の甲府行きと同様に今回もメッシュのジャケットにインナーを装着することで結論を出した。
今回の目的地の信州地獄谷温泉は2006年の春のGW以来丸5年振りのリピートになるが、実際は東日本大震災により自粛ムードの中、2泊3日で能登半島へ行く予定が中止になり、直前になってやはり何処か近場へ1泊2日に縮小して行こうと言うことになったので急遽決めなければならなくなり、筆者としてはリピートしてみたい宿の一つでもあり、ひと月前であったが何故か簡単に予約が取れたので即決した。
初日のコース取りは5年前と同じ全線高速道を利用してのものであるが、本来ならば上田菅平ICで降りて菅平高原から須坂市へ抜ける山越えコースをのんびりと縦断したかった。ETCの休日¥1,000.–の優遇措置も6月一杯でまもなく終了してしまうと言う理不尽な政策が進んでいるので、この機に目いっぱい活用しない訳にはいかない。震災復興への財源確保との大義名分で撤廃されるのは何とも合点がいかない。一度施行してから丸2年も継続してきた制度を廃止にしてはこれまでメリットを挙げてETCを普及させてきた関係者やそれを理解して購入したユーザーへの裏切りではないのか!何とか政府には現行のETC割引を存続させるか新たな代替案で遜色ないように対処してもらいたいものだ。
そんな想いの中、本日は出発時間より早めの7:00にショップ前に到着したが、未だ誰も集合していなかった。缶コーヒーでも飲もうと近くの自販機に向かうとHOTのBLACKは既にCOOLに切り替わっていた。夏でもコーヒーはHOT派の筆者としては5月になったばかりだし、HOTのある自販機を探そうと周辺をうろうろしていると携帯に着信が! 春日氏よりバイクコンテナから出庫する際に庫内でバイクが横転してしまったとのHELP要請であった。ショップからほど近い駐車場内にあるコンテナに急行すると本人はだいぶ腰を痛めたようだが、バイクの方は損傷がほとんど無い様だったので何とか全員揃ったところで出発することになった。集合前での出来事だったが結果的には今回唯一のハプニングであった。
筆者としては自宅方面へ戻るかたちになるが、国道4号線経由で草加ランプより外環に入り内回りを進むと美女木JCTを過ぎた辺りから既に渋滞が始まっていた。大泉JCTより関越道に入り、このルートでは恒例の三芳SAで朝食を兼ねた朝一の休憩をとることした。
ここはいつも賑やかだが今日はこのGW中の半ばで2度目の3連休初日に当たる。いつになく混み合い、この先も下り線はまだ渋滞が続いており連休中のツーリングでは毎度のことではあるが、朝から渋滞の中ですり抜け走行するのは緊張感を維持しなければならないので気が重い。
次の休憩予定地である上里SAを過ぎれば藤岡JCTで本線と上信越道に分岐するので渋滞はそこまでであろうとの甘い期待は見事に裏切られ、結局は碓氷軽井沢ICを過ぎるまで解消しなかった。
筆者らもそうであるが先の東日本大震災以来、単に通過するだけでも放射線の被曝の恐れのある東北道の福島県中通り方面は回避して上信越方面に流れていた人が多くいたような気がした。浅間山トンネル付近からは山間部を縫うように道が続いているため陽射しが雲に隠れると外気が急に冷たくなり、また流れが回復しスピードも増すにつれて体感温度もぐっと下がってきたので次の佐久平SAで休憩を取り、HOTコーヒーで冷えた身体を暖めることにした。
ここまでの渋滞の影響で当初の計画より一時間ほど遅れていた。予定では信州中野IC前のお食事処“美禄”で“天ざるそば”を食べる予定であったが、既に正午前になっていたのとそろそろ早めにガス補給をしたいとの要望があったので昼食を兼ねて次の東部湯の丸SAに立ち寄った。不本意であるがここでは“豚味噌焼き定食”を食べることにしたが名物と言える程の美味しさではなかった。食事の間に徐々に店内も混み合ってきて落ち着かなくなってきたので早々に切り上げることにした。この辺りまで来るとSA内に滞在する車の数もまばらでGSも空いており、時間待ちなしで給油が可能だ。
この先に高速道の最後の分岐となる更埴JCTがあるが、そこで誤って左に進んでしまうと長野道に入ってしまうため、ここからは全員団子状態で右車線を上信越道の信州中野ICへ向けて進んだ。JCTを無事通過すると交通量もぐっと少なくなり、高速からは眼下には田植前の水引を待つ田園風景と千曲川の堤沿いに5月だというのに満開の桜が飛び込んで来る。新緑の山々から吹いてくる薫風に乗って高台の高速まで桜吹雪となり舞い降りてくる。それは信州の遅い春の到来を一斉に告げているように思われ、その光景の中をヘルメットのシールドを全開にして疾走すると今まで体感したことのない爽快感に包まれる。
それは上手く表現するのは難しいが、日常の生活やちょっとした町乗りでは感じ得ない、旅先においてツーリングライダーとしての別な人格が現れて感じる物なのかもしれない。
最後のPAとなる小布施PAでトイレ休憩を済ませてからその先の信州中野ICより一般道へ出るが、出口をそのまま直進してしまうと志賀中野有料道路に入ってしまうためそこは回避し、右折して県道29号線から国道403号線を経由して中野市のバイパスである国道292号線を志賀高原方面に向った。長野電鉄長野線の架線橋を越えると左側に夜間瀬川の河川敷にここでも満開の桜並木が見えて来る。その先には道の駅“北信州やまのうち”があるので立ち寄った。宿でのつまみを物色する予定だったが、以前の訪問時に比べると内容は地産のお土産が中心になってしまい、気が利いたものがないので諦めて斜め向かいにできたセブンイレブンで調達することにした。
長野電鉄長野線の終点である湯田中駅周辺には上流の志賀高原を源流とする横湯川、角間川が合流した夜間瀬川が流れているが、それらの川沿いに密接して構成された大小10の温泉地を渋・湯田中温泉郷と称している。どれも開湯は千年以上前と古く、その中でも渋温泉にある“金具屋旅館“はアニメ映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった重厚な造りの老舗旅館である。また湯田中温泉の“よろずや旅館”などもTVの旅番組でも度々紹介されているので有名であるが、やはり人気が出るとそれ相応の料金設定になってしまうのか、特にハイシーズンでも正月、GW、お盆の時期は別格(¥20,000.–以上の高額)であるから我々のような庶民派ライダーには縁遠いもので、またそのような贅沢な旅行は当然我がクラブの趣旨から外れるものである。
目的地は山影の向こうに見えそうな位置まで既に到着しているが、前回と言っても5年前の曖昧な記憶なのでここから先はお約束通りに春日氏のNINJAに搭載したカーナビに先導をお願いすることにした。まもなく渋温泉の入り口になる沓野渋IC(高速のインター形式になっていて、一般道への出入り口になっている。)より横湯川を渡り渋温泉街に入った。川沿いにしばらく進んでいくと左側に地獄谷温泉へ続く細い林道がある。舗装はされているものの路肩には春先でも落葉や木片も散乱していて対向車も結構多く、すれ違いには十分注意して走行する必要がある。2.5KMほど林道を登っていくと渋温泉地獄谷有料駐車場があり、車両はここで終点となる。本日の宿泊先となる“後楽館”への宿泊客もここに駐車(バイク¥300.–、車¥500.-/日(泊))してから一般のハイカーと同様に枯れ場もある山道を徒歩で15分ほど登って行かなければ宿に到着しない。
荷物はなるべく最小限度にしておかねばならないことは分かっていたが、前回訪問した時はここの駐車場の職員(恐らく渋温泉側の人)が横柄で、狭く限られたスペースで運営していることは分かっていても、料金を徴収するにも係わらずバイクは邪魔にならない余ったスペース(未舗装部分の傾斜面)に駐車してくれとの態度の悪さに憤慨してしまい、事前に確認していたもう一方の宿への通用ルート(宿の前を流れている横湯川対岸の上林温泉側からの遊歩道をバイクで走行するもの)で宿の真下まで行ったため、ここの駐車場から徒歩での宿に向うルートで行くのは今回が初めてだ。さすがに今回はそのような不快感を味わうことなく、車一台の駐車スペースにバイク3台を斜めに駐車できた。いざ歩き始めると両手にヘルメットと荷物を持って山道を登って行くのは結構きついものがあり、過去に狭心症を患ったことのある筆者は途中で息切れしてしまい、小休止をしながらようやく“後楽館”に辿り着いた。
因みに現在では上林温泉側からの遊歩道は車両通行不可になったそうだが、当時は宿の主人から遊歩道ルートの通行を許可されていたもので、実際その時も雨上がりでぬかるんだ道に愛車CBR900RRの後輪を滑らせながら一歩操作を誤れば谷側に転落してしまう状況下を命がけで登って行った記憶がある。その終点にある売店横の橋を渡れば宿(後楽館)であるが、川を越えずにそのすぐ先の山道を登っていくと小高い場所に野猿公苑がある。実は筆者もそこへは未だ訪れたことがないのだが、この周辺は鳥獣保護区に指定されており、野生のニホンザルが群れで生息している。聴いたことはないが、笛を吹いて合図すると餌付けされているのか集まってくるらしい。確かに前回は宿側の山肌の斜面を何頭かのサルが駆け下りて対岸へ渡って行く光景を目撃したことがある。その野猿公苑へは連休中ということもあり、宿の露天風呂から見ていても結構多くのハイカーが訪れていた。その道は本来そこへ向かう人のために造られた遊歩道であるから車両走行禁止にすべきである。
15時過ぎにはチェックインしたので早めに露天風呂へ入ろうとしたが、到着と同時に小雨が降り始めてきた。何とか荷物も濡れずに済んだのは良かったが、ひどい降りにならないうちに浴衣に着替えてここのメインとなる混浴の露天風呂に向かった。小雨の中ではあったがそれまでの緊張感や疲れを癒すには何と言っても露天風呂は開放感があって最高である。できれば晴れていればもっと気持ち良いのだが!
ここで“後楽館”の詳しい紹介をすると、この宿は創業が1864年と約150年近い歴史がある。渋・湯田中温泉郷の中では最上流にあり、横湯川の渓流沿いの一軒宿である。木造の3階立ての建屋は幾度かの増改築がなされているが、一部は創業当時の明治時代からの年代を感じる造りが残っており、日本秘湯を守る会に所属していている。古くから多くの有名人、著名人にも愛されていてここに逗留して作品を書き上げた作家も多いそうだ。
今では中高生になった子供らが宿の手伝いをしており、部屋数は12あるので満室ともなると宿泊収容人員は45名前後になるが家族で協力して運営しているアットホームな民宿と言う感じだ。部屋に置かれた宿の案内には英語での注意事項の記載があり、長野五輪で外国メディアが紹介したのを機に外国人客も結構訪れているらしい。最終的な宿への交通手段は徒歩でしか行くことができない秘湯であることが我々日本人でもそうだが、外国人にとっても新鮮なのかもしれない。
最近は専ら野生のニホンザルが入浴する露天風呂のある宿でTV番組や雑誌で紹介されて有名になってしまった。食べ物目当てに宿の屋根を伝わってサルが悪さにくるため、すべて窓には網戸で部屋への侵入を防御している。
この地獄谷温泉の名前の由来は横湯川の対岸にある大噴泉の噴出し口からの熱湯と轟音が地獄から湧き出るような感じで恐れられてきたからだそうだ。筆者はあまり宿の周辺を散策するほうではないので残念ながら近くまで行って聞いたことがないが、宿側からは上流よりは雪解で豊かな水流と川音であることもあり、さほどの轟音には聞こえない。その大噴泉は常時吹き上げており、一般的な間隔をおいて吹き上げる間欠泉ではない。その白い飛沫は渓谷の上流から吹き下ろす風により下流方面へかなり高くまで舞い上がっている。宿にあった案内では江戸時代の大震災時に一時的に噴泉が止まったらしいが、枯渇した訳ではなく暫くして復活したようで現在に至っているそうだ。また観光客が悪さをして投石により噴泉口が詰まってしまうとそれを撤収に宿のスタッフが行かねばならなのでくれぐれもその様な行為は謹んでくれと記載されていた。
大噴泉や野猿公苑があるため日中はこれらを訪れる対岸のハイカーからこちら側の混浴露天風呂は丸見えになるので入浴するのは男性でも少々気恥ずかしい。男性用、女性用の内風呂からそれぞれ露天風呂につながる構造になってはいるが、夕暮れから夜明け前までなら問題ないが、女性が日中にどうしても入浴するならそれなりの準備をして臨むか、覚悟して入浴するしかない。
男性の筆者は確認できないので詳細は不明であるが女性専用の露天風呂も別にあるらしい。尚、内風呂は男女各1、家族風呂(ここは空いていれば家族で内から鍵を掛けて無料で使用可。)が2つある。泉質は“ナトリウム・カルシウム塩化物・硫酸塩泉”源泉は63~75℃、効能は胃腸病・神経痛・リューマチ・痔など。無色透明・無臭の源泉掛け流しで、内風呂はかなり高温で常時加水して温度を下げているようだが、渓流沿いの混浴露天風呂は岩盤でできた湯船が結構広くて大人でも10人前後は余裕で入浴可能だ。白い湯の花が浮いているお湯は柔らかく、目の前の大噴泉から吹き上がる飛沫と渓流の川面からの湧き上がるマイナスイオンを受けながらのロケーションも開放感いっぱいでとても気持ち良い。何ヶ所かあるお湯の流出口付近は高温だが、全体的には丁度良い湯加減となる。またここは冬場限定と言うことで筆者も体験したことはないが、近くに生息する野生のニホンザルがこの混浴露天風呂に入りに来るらしい、これだけ気持ち良いとサルが入浴しに来るのも分かる気がする。サルは警戒してかこの時期には入浴しないようなので少々残念だが、逆にサルと一緒に露天風呂に入るのは果たしてどんな気持ちなのか想像もつかない。
過去に一緒に入浴した経験がある方に一度お聞きしたものだ。
5月とは言え渓流沿いに吹き下ろす風は冷たく、日が落ちると一層体感温度は下がるので初めは半身浴でよかったが、そのうち肩まで浸からなくてはいれなくなる。ここは日帰り入浴も¥500.–で可能であるが、最近以前行っていた朝の8:00~9:30の受付は取り止めてしまい、チェックイン前の12:00~15:00に日帰り入浴可能時間を限定したようなので、今後立ち寄って利用される予定のある方は注意したほうが良い。
入浴後は自販機で缶ビール(500ML ¥500.-)を買って部屋で喉を潤すことにした。部屋にはここの名物のちまきがお茶受けで用意されている。何も味付けしていないさっぱりとしたものに砂糖ときな粉をまぶして食べるらしい。お土産用としても宿で販売もしているが、筆者のイメージしているちまきとは趣が違ったのでそれを購入する気分にはなれなかった。
18時からは信州周辺を湯巡りしているという賑やかな10名ほどの初老のグループと一緒に広間での夕食となった。内容は手造りの田舎料理で鴨鍋、鯉の洗い、岩魚の塩焼き、若竹の煮物、山菜のてんぷらなどである。夕方ともなると少々冷え込んできたのでビールという気分ではなくなった。銘柄は失念したが辛口の地酒を熱燗にして乾杯することした。焼き立ての岩魚の塩焼きは塩加減が絶妙で他では味わったことがないほどの美味しさである。できれば骨酒で味わいたいくらい温めの燗酒には良く合った。メインとなる鴨鍋には後半はうどんを入れて、さらに最後に雑炊にして締めた。
満腹になり、部屋に戻ると既に布団が敷いてあった。この部屋の向き(山側)が悪いのかTVのスイッチを入れてもはっきりと映らない。冷静に考えると秘湯の宿に来ているのだからTVなど世俗的なものは端から無くても良いのかもしれない。渓流と雨音を聞きながら一度布団の上で横になってしまったら、そのまま寝てしまった。
走行距離 296KM
2日目
5月04日(晴天)
毎日の習慣で5時には目が覚めてしまい、他のメンバーはまだ就寝中だったので起こさないよう部屋を出て早朝の露天風呂に向った。入浴している客もおらず、30分以上は浸かっては出てと繰り返していた。昨夜の雨はすっかりあがり、まだ朝陽は見えないが東の空は朝焼けで明るく、今日も天気は良さそうである。しばらく野生のサルが出没しないかデジカメを構えて周囲を確認していたが朝はまだ寝ているのか確認できなかった。のぼせてしまう前に風呂から上がることにした。
山奥の宿のもてなしとしてはごく一般的な朝食を済ませ、部屋で着替えを済ませて寛いでいると窓の外に見える湯殿の屋根伝いに子ザルが現れた。湯気による熱で暖かくなった壁に身体を押し付けて気持ち良さそうにしている。こちらがカメラを構えて凝視しても特に気にする訳でもなく、やっぱり人に慣れているようだ。
宿の清算をして9時前には出発することにしたが、昨日同様に山道を徒歩で駐車場まで行かねばならないことを思い出した。今度は下りなので多少気が楽ではあるが!途中で小学生の女の子が何かを発見して興奮しているのでその方向を覗いてみると、対岸の沢に日本カモシカの幼獣が木の新芽を食べていた。筆者も沢まで下りてカメラに収めたが、そのうちギャラリーがどんどん増えてきたので筆者は早々に退却し、駐車場へと向かった。
昨夜の雨が大粒のものであったのか、雨中走行していないのにバイクはだいぶ汚れがまだらになって目立つのできれいに水拭きをしてから気分よく出発することにした。国道292号線(志賀草津道路)を志賀高原に向かって登って行くと緩やかなワインディングが続き、乗用車がいなければ軽快は走りが楽しめて最高であるが、今回は控えめにしておくことにした。やがて丸池、熊の湯といったスキー場周辺では残雪の中で春スキーを楽しくんでいる人が結構多い。少し先にある横手山ドライブインに立ち寄り休憩と土産物を購入することにした。今回も晴天に恵まれて、ドライブイン横の駐車場からの展望は遠く北アルプスの山々も一望できる。道路の反対側には横手山スキー場があるが、ここは1987年11月公開された映画「私をスキーに連れてって」の中でここから渋峠を越えて万座スキー場まで林間ツアーすると言う無謀な設定となっていた。映画のストリー云々よりも原田知代が着用した純白なスキーウエアー、ニット帽にサングラス姿が清楚な感じで新鮮だったのか、爆発的に大流行して当時各地のスキー場では白いウエアーを着てその気になったゲレンデ美人だらけだった記憶がある。普段はそうでなくても雪の降っているスキー場ではそれなりに見えるから不思議だった。
当時主人公の三上博史がドラマで使用していたロシニョールの板は筆者が業務で航空貨物での輸入に携わっていた経緯があり、これをきっかけに一番のスキーブームが到来して筆者自身も20代半ばだったので業務に遊びにと忙しくなり、重ね合わせるように各地のゲレンデへ出かけて一番スキーをした時代だった。またバブルの初期でこの頃からリゾート地への投資などでスキー場やホテルが乱立していった景気の良い時代であった。あれから24年も経つとは早いものだ!
この辺は標高が高くて真夏でも20℃以上になることが少ないらしく、今回のメッシュのジャケットでは寒くてとても長居ができないので早々に引き上げて草津方面へ向った。長野と群馬の県境である渋峠を群馬県側に数百メートル入ると日本国道最高地点 標高2,172Mの標識がある。この辺はバイクが駐車しにくいロケーションなので残念ながら毎回パスしてしまう。やがて晴天の青空の下で純白の残雪を頂く白根山が現れる。駐車場はどこも一杯のようで渋滞気味となってきた。観光バスでの客も結構多いらしく、山頂付近まで徒歩で行くことができるのか人の列がまばらに見える。そこからの長く続く下りのワインディングは渋滞により、まったく楽しむことができなかったことが心残りではあるが、GWの連休の最中であれば致しかたない。
前回の万座温泉から軽井沢方面に抜けるコースは選択せず、そのまま下って草津温泉に到着すると西の河原公園辺りはいつものように渋滞になっていので、国道292号線の本線は回避して旧道となる六合(くに)村を抜けるのどかなコースを選択した。今回は道の駅“六合”には寄らずに国道145号線への交差点を中之条町方面に向って右折した。中之条町からは国道353号線を渋川方面に進み、小野上村にある道の駅“おのこ”で昼食にした。この辺まで下りてくると渋峠から距離は幾らもないはずだが、標高が低くなったのと比例して気温が上がってくる。恐らくこの時点で25℃前後はあろうと思われ、ジャケットのインナーを外したくなる。この道の駅は思っていたよりも狭く、昼時は込み合っており、またメニューも少なかったので向かい側の郷愁を感じるドライブインで食べることにした。看板では釜飯とあったので注文したら、予約しておかないとダメらしく、やむを得ず大盛のもりそばを食べてお腹を落ち着かせた。
昼食後は高速での渋滞も気になるので早めに高速に入り家路に就くことにした。IC手前のGSに立ち寄りって満タンにしてから渋川伊香保ICから関越道に入った。最初の駒寄PAで小休止した際に意外と流れていて渋滞もなさそうなので今のうち距離を稼ぐこととして高坂SAまで進んだ。高坂SAで道路状況をチェックしていると渋滞箇所はほとんどなかったので最後の休憩を長めに取ることにした。今朝の出発時に関越道では渋滞が30KMとの情報が今回不参加だった針谷氏から春日氏にメールがあったらしいが、どうもそれは“ガセネタ”だったようだ。三芳SAを過ぎて最後まで特に渋滞もなく関越道から外環草加ランプで高速を降りて16時頃には無事に帰宅した。
走行距離 234KM
担当 齋藤
<後記>
過去に一度でも行ったことのある宿にはほとんどリピートしない筆者達であるが、ここ最近何ヶ所かリピートするようになったのはこれまで足掛け25年近く、主に東日本になるが温泉地を巡って訪れた宿の中でもロケーション、清潔感、従業員の接客の良し悪し、料金に比較しての料理の美味しさ等の要素を基準にして、最大の要素(理由)としている点はハイシーズンあるいは祝祭日・休日前日などでも特別料金設定をせずに通年一律料金で運営している良心的な宿であることだ。部屋の景観による差別化や特別料理での宿泊からの要望による割り増し差額設定は存在することは当然だが、曜日や季節による単純な格差設定には閉口してしまう。休日割増しで多く頂いた分を平日割引で顧客に還元しますという一方的な手法は平日に二日間(一泊二日の場合)も休暇を取ることなど筆者も含めたサラリーマンには至難の業であり、特に現代では非現実的なことである。
ハナからサラリーマン家族は対象にしていないなら話はわかるが、社員旅行や団体旅行が盛んで景気の良かった、ふた昔以上前の昭和の時代の手法では通用しない。上記の料金設定に固執している宿に筆者は同調することはできないし将来性を感じない。これからはやはり自身で選んで旅行する個人(家族、グループ)を無視しては存続できないことは現に有名な老舗旅館がそれまでに複数の要因があったにせよ、今回の震災をきっかけにして客足が遠のいたことで破綻しているのを見れば明白である。
通年一律料金でサービスしてくれる宿はそこの主人のポリシーや意気込みが一泊しただけでも宿泊客にも十分伝わってくる。今でも代表者の筆者には年賀状や暑中見舞いが届く。まだ数は少ないが、そうした宿の主人は我々と同世代の2代目、3代目が多いようだ。先代が残した顧客を含めた遺産を受け継いで、それをどう活かすかは本人の努力次第である。それに共感する客がいればリピーターとして何度も訪れ、またその人達からの口コミで評判が広まっていけば新規顧客も生まれるが、営利主義に走れば自滅する可能性もある。
何年かに一回しか利用しない者が言うのは他人事の様で申し訳ないが、薄利多売であっても支持する客がいる内は地道な努力をして頑張って存続して頂きたいと応援したくなる。
最後に震災でお亡くなりになった方々へ御冥福をお祈りするとともに、父祖伝来の土地で復興を目指そうとする被災者の方々が現実に何を望んでいるのかを考えるべきと思う。
芸能人のパフォーマンス的な募金活動による支援も集客力の高さから大切な資金になるが、タレントが居なくなった途端に協力する者も消えてしまい、一過性のものであることも事実である。壊滅的な被害のあった太平洋沿岸地域は別として、ライフラインに問題ない地域も風評被害による影響は東日本全般で受けている。ライダーとして何ができるかと考えても大きなことはできないが、ツーリングで実際に現地を訪れて地元の方々と触れ合いながら旨い食事やお酒を飲み、そのもてなしに感謝して対価として日銭を落とすということはできる。今まで実行してきたことを自粛して抑制するより、継続することが地域全体の活性化を促進することになるのだと改めて感じた。
以上