YEC TOURING REPORT
2008.05.03,04,05
目的地:岩手県鶯宿温泉、宮城県鬼首温泉
参加者:山中、齋藤、西村、春日、角野、名倉
出発予定:AM7:00 ショップ前
全行程: km
1日目
5月3日(土) 小雨のち晴れ
連休前の長期予報に反して前日からの雨が残る中、朝から雨具を装着しての出発となった。例により西村氏の到着を待って10分遅れでショップ前より環七加平ICから首都高経由で常盤道へとコースをとった。連休の混雑を回避すべく通常の東北道より常盤道を選択したのだが当然仙台まで全線開通していないのは承知の上の選択だったが、結果的には雨天走行であったので交通量の少ない方が走りやすい分良かったかと思った。
最初の守谷SA、途中の中郷SAで休憩をとり、今朝の予報では昼頃までは雨天走行を覚悟しなければならないと思ったが徐々に小雨になってきたので早めにあがることを期待しながら先を急いだ。
いわきJCを直進すると片側一車線の相互通行になっており、遅い車がいても追越がままならず部分的に二車線区間が出現するがそこで一気に抜くことで単調な走りにメリハリを持たせて眠気を覚ました。結局終点の富岡ICまで最後尾を走ってきたが到着すると名倉(まりちゃん)が到着していなかった。携帯へ連絡すると途中でSV1000の燃料計ランプが点灯したらしく、GSのない途中のPAで思案に暮れていたいたらしい。通常はその後も何リッター分かは走行可能なもので、ランプ点灯時点から距離の計算上ではガス欠にならないと周囲は判断したが、本人は恐る恐る経済速度走行で30分後に現れた。
富岡IC近くのGSで全員給油し、ここからは仙台まで一般道での走行になるので仙台に赴任経験があり土地勘のある西村氏にお願いすることとなった。国道6号線をしばし走ったあとそれに並行している県道35号、34号と繋いで南相馬市までほとんど信号もない快適な道であった。雨もようやく止んで途中のコンビニでトイレ休憩をとることにしたが、ここで雨具を脱ぎ捨てることにした。空腹に耐えかねる者も若干いたので早めに道の駅“そうま”に向かい昼食をとることにした。
すっかり好天になり暑いくらいの中、海辺沿いの松川浦にある大洲公園でしばし休憩後は相馬港から宮城県亘理町を抜けて仙台東部道路へ向かった。相馬は同じ福岡県であっても雪深い会津地方とは違い浜通りという太平洋岸の比較的温暖な気候で会津より北に位置しながら降雪量は少ない。また宮城県境に近く、中通地方の県庁所在地である福島市に向かうより一時間以内の通勤圏である仙台に勤めに出る者も多いそうだ。またここは戦前に私の母方の祖父が保健所に獣医として数年赴任していたことがあり、当時母も家族と共に暮らしていたことがあると聞いたが私自身訪れるのは初めてであった。
亘理町から再び高速道路(仙台東部道路経由仙台南道路)に入ると仙台南JCから東北道と合流し登り勾配の拘束カーブが続く仙台郊外(私は意外と高速コーナーが好きである)を抜けて泉PAで休憩をとった。この頃までには朝の雨で濡れたブーツの中もすっかり乾いてしまうくらいの陽気であった。 ここから先の宮城北部、岩手南部の東北道は毎度お約束で交通量も激減し食後の平坦という悪条件の中の睡魔との闘いが始まる。過去に一度落ちてしまい、気がついたら左斜行して路肩のガードレール手前10メートルまで迫っており、咄嗟に左足を出したらポスト間に張ってあるロープにうまいこと緩衝してもらい、その反動でコケることなく元の走行レーンに何事もなく戻って命拾いしたことがあったのもこの近辺である。どうしても東京からスタートしてこのこの近辺に達する頃は昼食後になるので眠気対策としては恣意佐奈休憩をとるか、眠気予防のガムでも噛む、あるいは音楽をガンガンにかけて走るとなど必要なのかもしれない。 前沢SAで給油、休憩をとる頃には皆の疲労の色が隠せなくなってきたが ゆっくり休憩をとり、ここで今夜のつまみを買っていくことにした。時刻は既に16時を過ぎていたので宿には一報を入れてから一気に盛岡ICまでひと踏ん張りして走ることにした。盛岡ICを出てからは春日市のカーナビ搭載のNINJAに先導を託して国道46号を田沢湖方面に進み、御所湖を過ぎて右折するとやがて本日の宿である鶯宿温泉 “川長山荘”に到着した。 鶯宿温泉の名前の由来は約450年前の天正年間に傷ついた一羽の鶯が湧き出ていた温泉に浸かって傷口を治したという開湯伝説からきており、この宿のお湯は泉質が単純硫化水素泉で無色透明であり、檜の湯船と露天の岩風呂がある。鶯宿川の両岸に大小23軒の宿が存在するそうだが間隔が離れて集中した立地ではないせいかこの手前の繋温泉とは違い温泉街という感じはなく意外と地味な印象であった。この近辺に共同浴場がないせいか、一般客も日帰り入浴に訪れていた。 ゆっくりと温泉に浸かり、お楽しみの夕食と冷酒の地酒を十分に味わいながらすっかりいい気分で過ごしているといつのまにか夜も更けてやがて就寝した。 走行距離 約 KM2日目
5月4日(日) 晴天
いつもの習慣で早朝に目が覚めてしまったのでとりあえず朝風呂に入り眠気を覚ますことにした。外は見渡すと昨日とはうって変わり好天での走行が望めそうなので朝食後昨夜計画の予定通り小岩井農場に立ち寄り、盛岡市内へ向かうコースでスタートした。国道46号線の繋温泉入口の交差点を左折すると小岩井農場までは一本道であるが何と朝からその道が渋滞しているではないか!やはり連休で近くの宿泊客が宿から出発して朝一で来場しているものであろう。あまり気が進まなかったが最後はオーバーヒートぎみになってきたので筆者も反対車線を走行して皆に追いついて到着した。
小岩井農場は岩手山の南麓に広がる火山灰土の原野に植林から始まった農場づくりは既に117年の歴史があり、その名の由来が創業者の小野、岩崎、井上氏の各名字の頭文字からきていることはあまり知られていない。ここは海抜306M程度であるが春の日差しが強くても岩手山から吹き下ろす風が大変爽やかな高原である。この地方を代表する詩人・童話作家の宮沢賢治も何度もここを訪れてイーハトーヴと名付けた岩手の大地を描写して数多くの作品を残している。
今朝、宿を出発する際に購入した割引券で“まきば園”に入園すると早速新鮮な農場のソフトクリームと牛乳を味わった。場内を散策し女性陣2名は乗馬を楽しんだが少々馬に気の毒のように見えたのは筆者だけではないと思う。ここでは数々の体験コーナーや施設があり、子供連れなら一日楽しむこともできる。ちょうど牧羊犬に追われた羊のショーが始まったが今日の予定を考慮して残念だが早めに切り上げることにした。
再び国道46号線に戻り盛岡市内へ向かうとここでもカーナビに店の電話番号をインプットして委ねることにした。市街地に入りまもなく中の橋通りに面する店“盛岡じゃじゃめん”前に到着した。盛岡の三大麺(わんこそば、冷麺、じゃじゃめん)のなかでも今まで
食したことのない“じゃじゃめん”は見かけはうどんのような白い太麺に肉味噌をからめて酢、ラー油等をお好みでよく混ぜてから食べるようだが汁はなく、器ごと温かいものが出されたのは予想外であった。また“ちいたんたん”という玉子スープを一緒に注文するのが常識のようだがこれは麺を食べ終わった後に飲むスープであるそうだ。値段も麺は大¥550.-、中¥450.-、小¥350.-、“ちいたんたん”は¥50.-とリーズナブルなもので盛岡発祥の手軽なファーストフードであるそうだ。ただ好みの問題でもあるが温かい季節よりは体の温まる季節の方がより美味しいのではないかと思う。個人的には冷麺を食べてみたかったのでそこはじゃじゃめん専門店で食べることが叶わず少々残念だった。
ここからは第二の目的地である猊鼻渓へ向かい盛岡南ICより平泉前沢ICまで東北道を
南下することにした。ICを出てから国道4号線の中尊寺手前から多少渋滞はあったものの、一関市街を迂回して気仙沼へと抜ける国道284号線を経由して県道19号線沿いにある猊鼻渓乗船場に到着した。駐車場も満車で結構賑わっており、往復約1時間半程度かかる舟下りとのことだったので14時という時刻から時間的に躊躇したが、連休で船もスタッフもフル稼働で頻繁に離発着して待たずに乗船できるということで、せっかくご当地出身の仲間の菅原氏に紹介されて来たのだから乗船することにした。
猊鼻渓は一関市の砂鉄川沿いに全長約2KM、高さ50Mを超える石灰石の岸壁が風化してできた奇岩や流れ落ちる滝の景観を40人ほど乗れる木舟を船頭さんが竿一本で川底を突きながら巧みに操り、そのガイドを聞きながら舟下りを楽しむというものである。上流の乗船場で一度降りて河原を散策、上流では岸壁の窪みの穴に投石をして上手く入ると願いが叶うと称して投石用の軽石のようなものをインチキくさいおじさんが販売していて皆が興じていたが筆者はその辺の河原に落ちている石で試したがなかなか難しかった。再度元の乗船場まで別な船頭さんの舟で引き返すというもので、帰り舟では船頭さんが猊鼻追分を謡ってくれる。底が見えるので水深はあまりないと思われるが放たれたともわれる錦鯉の泳ぐ姿が船から見える。急流下りとは違い川の流れも緩く、のんびりと時間が過ぎてゆく。その名の由来は渓谷の出入り口付近に位置する鍾乳石が獅子(猊)の鼻に似ていることからだそうで、時期としてはもう少し後(5月末)の藤の花が満開の頃か秋の紅葉の頃が良さそうである。また12月から2月頃までの冬季は舟にビニールの覆いが張られこたつ舟となり営業するそうだ。
時刻も16時を過ぎてしまったので本日の宿である鬼首温泉 峯雲閣へ到着が遅くなる旨を連絡し、この辺にも土地勘のある西村氏の先導で東北道経由の迂回ルートではなく一般道で峠越えをしてショートカットすることになった。国道398号線から国道457線を経由して県道249号線に抜け、国見峠を越えたところにある荒湯地獄という野泉があるがこの脇を通過して荒雄岳の南麓を吹上高原キャンプ場前に出るコースである。
快調に進んでいったが最後の下りで突然ダート路が出現した。さすがに一瞬驚いたが前方を走る先頭から土埃が舞い上がったのが見えたのですぐにそれと分かった。一時的なものと思っていたら結構数KM続いた。後で地図を見てわかったが、ここはもとからダートでこれはもはや確信犯的な選択とも思えた。ようやく舗装路になったところで後方のメンバーを待っていても最後尾のショップオーナーが一向に来ないではないか、これはダートでやらかしたかもしれないなと皆で言っていたが、この辺りは天然の温泉が湧き出る~地獄という名称の天然の有毒ガス(硫黄の臭化)が漂い硫化水素なら共倒れしてしまうのでまずい!日暮れ間じかで心配になり、唯一エンデューロ車である西村氏のBMW GSで引き返して様子を見に行ってもらったところ、やはりダートに入って直ぐに転倒してしまったようだ。ようやく合流した頃は日も沈み暗くなってしまったがここからはもうあと少しなので先を急ぐと数百Mで見覚えのある吹上高原キャンプ場に出たので5分もしないうちに宿に到着した。
チェックインして部屋に案内されると足早に風呂に入って軽く汗を流した後に立て続けに夕食を頂くことになったが、ここでは毎回冷酒の地酒を頂くことが楽しみの一つでもある。この後に入る予定のメインの露天風呂に入ることを考慮してお酒は控え目にしておくことにした。
この峯雲閣は宮城県鬼首温泉郷の吹上温泉の一軒宿の温泉であり、500年前の館を改造したものだそうだ。今回が3回目だがリピートして訪れる理由は何と言っても泉質が食塩泉の混浴の大露天風呂と隣接する吹上沢大湯滝であろう。この湯滝は吹上沢の上流で湧き出る間歇泉が混ざり沢から流れる落ちる滝が天然の湯になっており、その滝壺が露天風呂になっている感じである。20M程川底を歩いて進まなければならないので石がごろごろとして足の裏に痛みはあるがその開放感はたまらないものがある。いつもながら仲間と一緒に入ると童心に帰ってはしゃいでしまう。女性も宿で湯あみを購入するかバスタオルを巻いて入浴することも可能で、夜遅く筆者が入った時は今回も別な老夫婦が入浴していた。日帰り入浴も¥500.-で営業しており、日中は混み合うことも時間帯によってはあるらしいが宿泊客は1日8組限定ということもあり、よほどのことがない限り風呂が混み合うこともなく貸し切り状態で楽しむこともできるのもこの宿の良い点である。夏には吹上沢のほとりで源氏蛍も飛び交うとのことだが、以前訪れたお盆の頃は虻に襲われ大変な思いをしたのでそれ以来この時期に訪れるようになった。宿の主人の話では他の季節は虻の被害はなく快適だそうだ。湯滝は気温や降雨で湯の温度が影響を受けるため一般的には5月から10月までが入浴可能であり、最適な時期は6月、紅葉の10月頃とのことである。
部屋で2次会を行っている間も他の宿泊客には迷惑であったであろう露天風呂での大騒ぎ余韻の冷めぬままいつしか眠りに就いた。
走行距離 約 KM
3日目
5月5日(月) 曇り
いつものように早く目が覚めて外を見たら昨夜の雨もあがり、誰よりも先に露天風呂に入ってみると他の宿泊客が限定されていて少なく、誰も入ってこないせいか朝靄と、周囲の木々から出るマイナスイオンで癒される感じがとても心地よい。
朝食後は身支度の後、宿の主人に頼んで玄関先で記念撮影をして出発することにした。
宿から目と鼻の先にある鬼首かんけつ泉(入園券¥400.-)に寄ることにした。常連のメンバーは何度か行っているがここの敷地内に間歇泉“弁天”と呼ばれている10~15分に一度20M程地下から吹き上がる間歇泉があり、吹上温泉の名の由来になっている。あまり近くに寄ると急に吹きあがった際に高温の飛沫が舞い降りてくるので危険である。一度終ってしまうとまた次回まで待つ気にもなれず、あとは古びた土産物屋があるだけでこれといったものがない。町営の施設なのか毎回感じるのだが赤字にならない程度で運営しているならいっそ民間へ託して地熱を生かしたエコ温室栽培や温水プール、クアハウス等の施設を併設した研修所にも利用可能な有効施設にしたらどうだろうか?いずれにせよ昭和の香りが漂う古臭い場所である。
今日はここからあとは東北道を使って帰るだけなので特に取り上げるものもないのだが
高速へは鳴子温泉口まで国道108号線で、そこを左折して国道47号線を江合川沿いに古川ICまで進むのだがこの沿線には栗駒山系の火山地帯の恩恵を受けて川渡、東鳴子、鳴子、中山平、赤倉、瀬見と数多くの良質の温泉がある。途中岩出山町(現在は大崎市)付近にある“あ・ら・伊達な道の駅”とい風変わりな名の道の駅にトイレ休憩を兼ねて立ち寄った。ここは結構活気があり、賑わいを見せていた。ずんだ餅の団子を味わい土産物を見ていたらここはその名の通り、伊達政宗が仙台青葉城に居城する前12年間岩出山城に居城してこの地を治めた場所でその後も子孫が岩出山伊達氏として一族が江戸時代幕末まで治めたゆかりのある場所であることからやたらと土産物の名称にその幼名の梵天丸や政宗公に因んだものが多い。
ここからは歴史に興味のある方向けの戦国時代を生き抜いた“伊達 政宗”公に関する蘊蓄になるが、政宗公は仙台藩の始祖であり、仙台青葉城跡に騎馬像より仙台市内を見下ろしている雄姿が有名だが戦後時代の終わりには山形、宮城、福島といった南東北において数多くの合戦で近隣の小豪族を討ち平らげ、苛烈なほどに所領を拡大していった。実はわが生まれ故郷の会津にも天正17年に磐梯山麓の摺上原の戦いで長年のライバルであった会津若松城(黒川城)の築城主であり、約200年もの間代々続いた蘆名氏を滅ぼして当時の本拠であった米沢から黒川城に移したことがある。これにより政宗公は岩手県南部から南東北をほぼ手中に治めたがその苛烈さは当時中央で天下を握っていた秀吉の叱責をかっていた。翌天正18年秀吉は小田原征伐を開始し北条氏を攻めたがこれに参陣を求められたが政宗公はなかなか重い腰を上げなかった。一説には中央での勢いの差は歴然としながらも臣下の例を尽くすことをそう簡単にはしようとしなかった意地とも秀吉の怒りをかった政宗公を退け、家督を実弟小次郎に立てて伊達家の安泰を図ろうとした最上家出身の母親方一派が政宗公を毒殺しようとして未遂に終わってしまったことに対してこれを謀反として小次郎を斬り捨てることで家督争いを鎮静してから会津から小田原へ向けて参陣したというクーデターがあったからともされている。
小田原へ到着するも秀吉は面会を許さず、その遅参の申し開きをしたが聞き入れられず、後に領地は削られたものの伊達百万石を安堵され、会津へ帰った。しかし翌月秀吉の命に従い会津は召し上げられ、元の本拠である米沢へ戻されることになった。この史実によると政宗公はわずか一年足らずしか会津を領地にできなかったためか地元会津に政宗公に関する逸話は少ない。その後小田原を落として北条氏を滅ぼした秀吉は翌月8月に会津で奥州の配置を定め、会津の領主は蒲生氏郷、政宗は一時的に戻された米沢からここの道の駅がある岩出山城に移された。この両名で奥州鎮圧に活躍したが政宗は各地で起きた百姓一揆を煽ったとされ謀反の疑いありとして上洛を命じられ詰問を受けることになった。入洛の際に死装束に金箔の磔柱を家臣に担がせた奇抜な姿は都人の度肝を抜いた。また後の朝鮮の役では千人の将兵を引き連れて上洛し、その軍装の壮麗さから秀吉にさすがは“伊達”と褒められ、後世に派手な装いや行動に対して“男伊達”や“伊達や酔狂ではない“、伊達めがね”などの見栄を張ることの例えの語源ともされている。
政宗公は関ヶ原の合戦も家康の東軍に付き、後も秀忠、家光の3代将軍に仕え、外様でありながら将軍家からの信頼は厚く、自身の晩年は家光より副将軍とまで称されるようになり、その威光は幕末まで伊達家の安泰と政宗公の築いた仙台の繁栄となった。その因果かどうか分からないが筆者の親戚、縁者にも会津から仙台へ転出した者が何人かいる。
道の駅を出発して古川ICへ向かう国道47号線を走りだしてから間もなく渋滞気味の流れの中で信号待ちの際に先頭車両の前に右側から出ようとした筆者CBR900RRと左側から右に寄ったまりちゃんのSV1000が接触しそうになり、傾斜した路面に体を支えられなくなっていつもの左側に立ちゴケしてしまった。毎度のごとくクラッチレバーの先端は折れ、左のウインカーはレンズが大破した。その場で路肩に寄せてウインカーレンズの応急処置を筆者持参の赤のビニールテープでレンズを補強し、けが用のテーピングテープでその外枠をしっかり固定して済ませた。このテーピングテープは幸い人間用に使用したことは無く、専らバイクの補修用に活躍の場を得ている大変重宝なものである。
古川ICよりは東北道を一路東京方面へ南下していった。連休をあと一日残しての帰宅であったせいか道中特にひどい渋滞にも合うこともなく、最後は羽生PAでゆっくり休憩して解散となった。その後浦和ICで降りて外環下の一般道より草加の我が家に帰宅した。
走行距離 約 KM
後記
後日今回二日目に鬼首温泉に向かう途中の国道398号線から県道249号線に入る分岐から一本北側の道を進んでいった先にある栗原市の花山湖周辺で大規模な地震が発生し、大惨事が発生したがツーリングの時期がもう少し前であれば直接的にも間接的にもその影響を受けていただろうと言うことはあのニュースで流された舗装道路が大きく陥没して寸断された自然の恐ろしさを思い知らされた映像は記憶に新しくい。その時その場所を何事もなく通り過ぎてしまった者は時期がずれていて助かったと思うだけで、またその事実を知った後も都会で不自由なく日常生活に追われて過ごしている我々は被災者の方々へ何かお役に立てるようなことをしてあげられる勇気やボランティア精神の欠片もいのが、悲しいけれど現実であり、何故だか無力感を強く抱いてしまうことがある。僅かばかりの義捐金と家屋が倒壊し犠牲になって亡くなられた方々には心からご冥福と、またいつの日かツーリングで訪れて見たいという気持ちを込めて一日でも早く復興することをお折りしたい。
以上
手記 齋藤